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2012年02月27日

ただ主によって

■S:今日の聖書の言葉
  ピリピ人への手紙4章13節(ヨブ記34章)

★  私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

■O:今日のコラム

  私たちは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネの福音書15章5節より)とあるように、主がいなくては、どうにもなりません。しかし、私を強くして下さる主によってどんなことでもできるのです。

  主がいないと何もできないのは、パウロもペテロも同じです。ダビデも、サムエルもです。そして同じ主が、彼らを強くしたように、私たちを強くして下さるのです。

  生活の中で、全てに感謝し喜ぶこと、愛に生きること、人を赦し裁かないこと、私たちにはとてもやり続ける力など見いだせません。しかし、私たちを強くして下さる方によってならば出来るのです。

  私たちは、ちっとも良いことなど出来ないですが、自分を見つめて絶望し続けてもしょうがないのです。ただ主を見つめ、主に期待しましょう。

■A:考えてみよう
  主を求めましょう。主に対する情熱を大切にしましょう。




■P:祈り
  主よ。あなたを求めます。あなたによらなければ、私には何も出来ません。そしてあなたによってどんな事でも出来るのです。
  イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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2012年02月26日

エクサナスタシス(特別な復活)

■S:今日の聖書の言葉
  ピリピ人への手紙3章10−11節(ヨブ記33章)

★  私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

■O:今日のコラム

  私達は皆、イエス・キリストの十字架の救いを受け入れたなら、もはや死を恐れる必要は無く、たとえ死ぬ事があったとしても、将来死者の中から復活するという事を知っています。

  ということで、永遠の命を手に入れたから、後は自分のやりたい事を思いっきりやって、好き勝手に自分の人生を満喫して生きていこう!って事になるでしょうか?
  今日の箇所の意味を知るなら決してそのようにはならないでしょう。

  ここでパウロは、「どうにかして、死者の中からの復活に達したい。」と言っています。

  パウロの別の書簡を読むと、「イエスを信じる者は皆、救われる」という事が記されているので、「何でパウロは、ここで、どうにかして復活に達したい。と言っているんだろう?もう救われているのに。」と疑問を持つ事もあります。

  しかし、ここで使われている「復活」という言葉は、別の書簡の復活とは違う言葉で、「エクサナスタシス」という特別な復活を意味する言葉が使われています。このエクサナスタシスという言葉が使われているのは聖書の中でもこの箇所だけです。

  パウロが自分の人生全てをかけて達したいと願っていたのは、普通の復活ではなく、特別な復活でした。

  では、特別な復活とは何でしょうか?
  復活に違いがあるのでしょうか?
  この復活は主に忠実に仕えた人々に与えられる復活だと言う事が出来ます。

  この地上で、様々な試練や誘惑や闘いの中にあっても主を愛する事を選び、また主に忠実に歩む事によって結んだ人格や働きの実、それは死によって失われる事無く、永遠に輝く主の栄冠となるでしょう。

  また、この復活はキリストの花嫁としてめされる。という事も意味しています。
  この様に素晴らしいゴールがある事を知るなら、私達もパウロが言ったように、「何とかして、人生かけてもこの復活に達したい。」と願うようになるでしょう。

  しかし、注意すべき事は、近年異端のグループがこの箇所を使って、「私達こそ選ばれた特別な復活をする存在だ。」と訴え、人々に恐れから来る熱心さを起こさせています。

  しかし、私達が目指すべきは、「自分が特別な存在になる」為に努力するのではなく、ここでパウロが言っているように主を愛するがあまり、人生全てをかけてイエス様を追い求める。そのような者になる時、全ての実と結果は主ご自身からの賞賛として与えられます。
 
■A:考えてみよう
  今日ピリピ3章を通読し、私達がこの人生をかけて向かう先はどこかを思い起こす時を持ちましょう。




■P:祈り
  イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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2012年02月25日

とりなしに代える

■S:今日の聖書の言葉
  ピリピ人への手紙2章8節(ヨブ記32章)

★  キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。

■O:今日のコラム

  今週、『批判をとりなしに代える』というテーマの記事を読みました。その中に、以下の文章(一部抜粋)が記されていましたので、紹介したいと思います。
  
 「イエス様は、この世を見たときに私たちを罪に定めませんでした。私たちを滅ぼされませんでした。主は私たちのためにご自分の命を投げ出して下さいました。私たちも主がされたように応答するとき、(主はいつもとりなしておられます)私たちもどのようにすればこの人を助けられのか、考えるべきなのです。

  この人を助けるために、私はどのように命を投げ出せばいいのだろうか、と考えるのです。あなたはとりなし手となるのです。とりなしをするというのは祈り以上のもの、祈りを超えたものです。」

  「とりなしをするというのは祈り以上のもの、祈りを超えたものです。」という部分に共感しました。

  とりなしは、『十字架の愛』の行為なのだと思います。イエス様は、私たちを罪に定めるのではなく、私たちを救うためにご自分のいのちを全て投げ出して十字架について下さいました。そのことにより私たちは神様の愛を知ることができました。

  とりなしをするということは、自分のいのちを投げ出す行為と同じなのだと思いました。私たちも何か(人や状況、環境)を罪に定める(批判する)代わりに、それをとりなしに代えていく時、そこに神様の十字架の愛が流し出されていくのだと思いました。

  私たちを通して神様の愛が豊かに流れて行きますように。

■A:考えてみよう
  今日、とりなしの祈りをしていこう。




■P:祈り
  イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 あいこ 】
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